戦争の隣で育った南沙織さん
7月17日付の朝日新聞別刷り「be」を楽しみにしている。
後に森高千里さんがカバーした「17才」で知られる歌手の南沙織さんがなぜ取材に応じたのか。
私たちがまたやりすごそうとしていることはどういうことなのか。考えあいたい。
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◇戦争の隣で育った少女 南沙織「17才」沖縄・宜野湾市
(2010/7/16 asahi.com)
http://www.asahi.com/shopping/tabibito/TKY201007150357.html(続きは7月17日付け朝刊の別刷り「be」をお読みください。)
沖縄県宜野湾市の嘉数高台。その名に聞き覚えがない人でも、標高90メートルの頂に立つ展望台からの見晴らしは、新聞やニュースの映像で何度も目にしているはずです。
中低層の住宅がひしめく市街地のど真ん中に、2700メートルの滑走路がまっすぐ伸びています。上空から視察した米国の国防長官に、「事故が起きない方が不思議だ」と言わしめた米軍普天間飛行場です。
日本中の注目を集めるこの現場に思いがけずたどりついたのは、とっくに引退した元人気歌手を取材してのことです。彼女は16歳で上京するまでに3回引っ越し、それぞれが普天間飛行場の三つのゲートの近所だった--東京で会った南沙織さん(56)本人に、そう教えられました。1971年、本土復帰前年に沖縄からやってきて、「17才」で鮮烈なデビューを飾った美少女アイドルです。
南さんが最初に住んだのは、大山ゲートの近くだったといいます。「1号線のすぐそばで、戦車や軍用車が普通に走っていた」。1号線とは現在の国道58号。6車線の広い道は米軍の非常用滑走路を兼ねていました。
小4の頃に越した先が、市役所のある中心部に近い野嵩ゲート付近。そして、中学に上がってから、1994年に母が58歳で亡くなるまで実家があったのが、佐真下ゲートの目の前でした。
最後に住んだ場所には今、真新しいマンションが立っています。文教地区として知られ、数百メートル先には、2004年に米軍ヘリが墜落した沖縄国際大学があります。南さんが幼稚園から通ったクライスト・ザ・キング・インターナショナルスクール(CKS)へも徒歩で5分ほど。大山、野嵩にいた頃は、両親が運転する車で通っていたそうです。
ベトナム戦争で沖縄が出撃基地となり、戦場帰りの米兵による犯罪が多発していた時代でした。娘の一人歩きに母は神経をとがらせました。「佐真下に越したのは、学校が近かったから」と、南さん。
南さんの育ての父もまた、基地で働くフィリピン人。琉球人が羨望の目で眺めたフェンスの向こうの豊かな生活が身近にありました。商品があふれるPX(売店)やハリウッドの最新作を上映する映画館に出入りする身分証を持っていました。
にもかかわらず、南さんの思い出のなかの宜野湾の街は、モノクロ写真のようにどんよりと暗いそうです。
引退から32年。有名写真家の妻として何不自由ない生活を送っている南さんが取材に応じた理由は、はっきりしていました。
「言いたいことは一つです。沖縄の海を守って欲しい。基地はなくすべきですが、代わりに海を埋め立てたら取り返しがつかない」
戦争の影に覆われた日々にあって、海の色だけは今よりもっと鮮やかな青だったと、南さんは記憶しているそうです。
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