8・15の後・・・
30過ぎて、それまであまりしたことがなかった親の話。
テーマがあえば、数十人の前でも少し出すことも。
これまで歩んできた道に整理がついて。
同時に、私は、この国で生きている。
生きる前に起こったこと、人を傷つけたこと、傷つけられたことは、
いまだに根深く。
8月前半は驚くほど、原爆、終戦に関係した報道が相次いだ。
8月にだけそのような動きがあることを「8月ジャーナリズム」と批評する向きがこれまでもあったが、今年はどうなるか。
65回目の夏は、この記者の視点をひとつの軸にしているように思う。
前提とはしていないのだけれど、他の記事もさまざま読んでいるなかでも、結果としてやはり。
なぜなのか。
記者が、鋭い客観的な視点を持ちつつも、自らの体験・経験を引き合いに出して、メディアや私たちが指摘していないことに、あるいは避けようとしていることに、正面から向き合っているからではないか。
紙面では小さく、そして短く、限られたなかでのコラムに、考えさせられることが多い。
8月もまだあと2週間。
***
◇発信箱:「8・15」の後=三森輝久
(2010/8/17毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/opinion/hasshinbako/news/20100817ddm004070136000c.html「泣いてる大人もいた。とにかく『これからどうなるんだろう』っていう不安ばかりだった」「大人が口々に『戦争は済んだ』と言って、割とほっとした様子だった。『もう空襲はこない?』って母に聞いたことは覚えている」
65年前、当時10歳と8歳だった私の両親の8月15日の記憶だ。「七年前のこの日、一部の抗戦派は別として国民のほとんどが“やっと平和がきた”とほっとした」。サンフランシスコ講和条約が発効し、日本が独立を果たした1952年の8月15日付毎日新聞夕刊1面「終戦七周年」と題したコラムにそうあるから、大方の人はそう思ったのだろう。
空襲下を逃げ惑った父が「もうダメだ」と思ったのは、翌年夏だったという。戦中、田んぼに墜落した日本軍の練習機の残骸(ざんがい)を、父は好奇心からかき集めて家の床下に隠していたらしい。それを見つけた「進駐軍」の米兵が押し入った。障子を破って突き出た銃口に、部屋で息を潜めていた父は、一目散に田んぼに逃げたという。
「8・15」は非条理な死や恐怖と、安泰を分けてはいない。旧満州(現中国東北部)での戦闘と逃避行にシベリア抑留は言うに及ばず、ソ連軍が上陸した樺太では8月17日、日本人看護師23人が「集団自決」を図り、6人が死んだ。5日後、樺太からの引き揚げ船3隻が潜水艦から攻撃され、2隻が沈没して1700人余りが亡くなった。
沖縄では敗戦を知らず、逃げ隠れ続けた人たちがいた。「8・15」に米軍が空に打ち上げた曳光(えいこう)弾を「特攻機が来た」と大喜びした女学生もいた。鉄血勤皇隊に動員された元沖縄県知事の大田昌秀さんが米軍に投降したのは、10月23日だった。沖縄守備軍の司令官自決から丸4カ月後のことだ。(西部報道部)
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