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2011.03.13

震災後の関東の保育所をめぐって新聞が伝えたこと

巨大災害が起きたばかりで、テレビ報道が大きな被害や人命救助を求めるものに集中するのはやむを得ないのかもしれませんが、保育所をめぐっての新聞報道をまとめてみました。

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◇1人死亡 交通網マヒ  東日本巨大地震
(2011/3/13読売新聞埼玉版から一部転載)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/saitama/news/20110312-OYT8T00855.htm
 ■園児ら施設で一夜

 保護者が迎えに来られず、園児を一晩預かる施設も。

 さいたま市南区の市立大谷場保育園には「迎えが遅くなる」といった電話が殺到。最長午後7時半までの預かり時間を延長し、園児約20人を待機させた。11日深夜にかけ、都内から4時間以上歩いたという保護者らが続々と到着。勤務先の横浜市で購入した自転車を走らせた父親や、途中でタクシーをつかまえ、12日午前2時頃にたどり着いた1歳女児の父親もいた。

 2歳の男児はただ一人、高橋あい子園長ら職員3人と宿泊。目を覚ました深夜には、職員と電車のおもちゃで遊んで過ごし、午前9時半頃、知人の車で迎えに来た父親と、元気そうな様子で帰路についたという。高橋園長は「40年近く保育園で働いているが、夜中に園児を預かるのは初めて」と話した。

 同市浦和区の市立浦和中央保育園では園児5人が一夜を明かした。午前7時頃に迎えにきた母親は、未明に埼玉高速鉄道浦和美園駅に着き、バスと徒歩で5時間かけてたどり着いた。母親は「他に頼れる人がおらず、本当に助かりました」と感謝していたという。

 残る2歳の双子の女児が引き取られたのは午前11時頃。都内の勤務先に泊まった父親(39)は、電車とバスを乗り継ぎ、約2時間かけて到着。疲れた様子だったが、子どもたちが駆け寄ると、笑顔でしゃがんで抱き寄せた。一睡もせずに対応した横田清美園長は「全員無事に戻せた。心からほっとした」とうっすら涙を浮かべた。この日予定していた卒園式は中止した。

 都内通勤者が多い東武東上線沿線の自治体も、保育施設で保育延長の措置を取った。富士見市では11日午後9時40分時点で、認可外を含めた16施設で計43人の子どもを預かり、4人は保育施設で一夜を過ごした。

 朝霞市でも午後6時時点で、17の認可保育施設で計317人を預かった。同11時には34人にまで減ったが、1人が宿泊。和光市も午前2時まで保育を延長した。

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◇東日本大震災:県内死者11、不明11 津波が旭襲う たちまちがれきの山に
(2011/3/13毎日新聞千葉版一部転載)
■保育園
 東京のベッドタウンとなっている県北西部では、保育園に子供を預け都内へ出勤した両親が帰宅困難となり、柏市では市内の14保育園で0~5歳児36人が保育士たちと眠れぬ夜を過ごした。
 「夏帆(かほ)ちゃん、よく頑張ったね」。柏市の橋本達士(たつし)さん(38)は12日午前11時、同市豊平町の私立吉野沢保育園に駆けつけ、5歳の長女を抱きしめ頭をなでた。夏帆ちゃんは疲れた様子で「大丈夫」と言葉少なだった。
 橋本さんは11日朝、園に預けた後東京都内の仕事場に出勤。妻(39)も都内の別の場所で勤め、地震でともに帰れなくなった。夏帆ちゃんは園で夜、余震のたびに目を覚ましたという。【早川健人】

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◇「息子を迎えに」3歳児母の記者ルポ
(2011/3/13読売新聞東京版)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyo23/news/20110313-OYT8T00026.htm

 地震に襲われた時、三鷹駅近くの武蔵野支局(武蔵野市西久保)にいた。支局員の安全と管内の被害を確認した後、大きな問題となったのは、池袋の自宅近くの保育園にいる3歳の息子をどうやって迎えに行くかということだった。

 JR中央線に乗ろうと三鷹駅に行くと構内はすでに閉鎖され、タクシーやバス乗り場はロータリーの外まで行列ができていた。当分は迎えに行けないと覚悟して支局に戻り、取材を再開。保育園に事情を説明し、地域のファミリーサポートセンターを通じて保育園の送迎を頼んだことのある女性の家で預かってもらうことになった。

 だが中央線復旧の見通しがないことが分かり、午後9時過ぎにタクシーに乗った。運転手は開口一番、「池袋からこの辺りまでお客さんを乗せたんですが、4時間かかりましたよ」。都心に向かうのは逆方向だから大丈夫だろうと考えたが、道路は上りも下りも大渋滞。時間は刻々と過ぎ、もどかしさが募る。

 女性や家族に連絡しようと携帯電話で何十回もかけたが、つながらない。コンビニの公衆電話で連絡がついた母からの情報で、西武線が復旧したことを知り、西武池袋線に乗った。午前1時近くにようやく池袋駅に到着した。下りのホームは、電車を待つ人で埋まっていた。

 もうすぐ息子に会える。そう思うと、自然と速足になった。途中、駅前の銀行ATMコーナーの中では何十人もの男女がガラスの壁を背もたれにして仮眠していた。立ち食いそば屋の入り口には「そばだけ。ごはんありません」の張り紙。ホテルのロビーを突っ切ると、大勢の人が寝ころんだり、テレビのニュースを心配そうに見つめたりしていた。

 息子を預かってくれた女性にお礼を言って、帰宅したのは午前1時半。お迎えに4時間半かかった。だが私はまだ良い方だったのだろう。息子の保育園では12日昼になっても迎えに来られない母親がいたそうで、先生方が泊まり込みで対応していた。

 再び大地震が起きて交通機関がまひした時、どうすればいいのだろうか……。今はただ、公衆電話のありがたみと、終夜動いてくれた交通機関、帰宅困難者を支援してくれた人々への感謝をかみしめている。

***

◇混乱首都 足だけ頼り 千代田区~横浜35キロ6時間 記者も遠い家路
(2011/3/12東京新聞夕刊)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2011031202000150.html
 多くの帰宅困難者が勤務先や公共施設などで夜を明かす中、東京都千代田区内幸町から横浜市までの約35キロを6時間かけ、保育所に預けた長女(6つ)と長男(2つ)を引き取るため、歩いて帰宅した。 (杉戸祐子)

 保育は最長で午後七時まで。夫(35)は仕事が忙しく、当てにできない。電車も当面は復旧しないと考えた。保育所の友達に一時的な引き取りを依頼するため電話をかけたが、つながらない。一人が引き受けてくれたが、仕事で行けなくなった。一刻も早く、自分が向かうしかない。

 午後五時すぎ、非常時用に置いてあったスポーツシューズと靴下に履き替え、会社を出た。霞ケ関駅付近から国道1号を南下する。「タクシーに乗れれば」と思ったが、多くの人がタクシーを探している。つえをついた高齢の男性が手を挙げる前に躍り出るサラリーマンの姿も。空車などほとんどない。

 単身の客が後部座席に悠々と座っているのを見て、非常時は行き先の札を掲げ、乗り合いにすればいいのにと思った。路線バスは満員で乗車できず、歩くしかないと腹をくくった。

 午後五時二十分、港区虎ノ門で、横浜までの距離が三十一キロあることを道路標識で知る。保育園の到着が大幅に遅れそうだ。子どもたちを少しでも早く引き取ってくれる相手も見つけたい。夫にメールを送り、連絡作業を一任した。

 歩いている誰もが急ぎ足。ヘルメット着用は一割程度か。第一京浜に入ると、車は数珠つなぎで全く動かない。午後六時すぎに品川駅を通過した。「電車は全然動きません」と叫ぶ警察官。駅前交番は道を尋ねる人でごった返していた。

 出発から二時間後、大田区の都水道局大田営業所スタッフの案内で、多くの人がトイレへ。近くのコンビニでもトイレ前には行列があった。おにぎりは完売。肉まんを買ったが、中身が凍っていた。愛知県の両親や弟、友人らの電話、メールに元気をもらった。

 吉報が舞い込んだのは午後八時。長女の親友(6つ)の両親が夫からの連絡を受け、子どもたちを保育園から引き取ってくれた。ひとまず安心だ。

 間もなく多摩川を渡る。夫から「先は長いから温かいメシを補給して」とメールが。道沿いの牛丼チェーン店をのぞいたが、ご飯切れだった。

 鶴見川を渡り、午後九時すぎ、横浜市鶴見区役所でトイレへ。災害用クラッカーと水をもらった。一階フロアのいすには多くの市民が座り込んでいた。残り約十キロ。このころから、疲れがきたのか、小さな段差につまずくようになった。信号待ちのたびに脚のストレッチを行った。

 歩きだして五時間の記憶は鮮明だったが、最後の一時間は途絶えがちに。自分に言い聞かせた。「今回は道が平たんなだけ楽だ。首都直下型の地震だったら、建物が倒壊したがれきの中を歩いているのかもしれない」と。

 到着したのは午後十一時十五分。ぐっすり眠る長女。長男を抱っこして預かってくれた両親の車で自宅に戻った。

 十二日午前三時、長男が泣き叫んだ。毎晩恒例の夜泣きだ。母乳を含ませるとしがみつき、満足するとまた眠りに落ちて行った。長男の体温がいとおしく、生命がありがたくて涙が出た。

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コメント

何もできずにただニュースを見ているだけ

わたしもその一人です。繰り返される同じニュースから目が離せず(何か新しいことが起きるのではという不安から)、ただニュースを見ているだけです。

赤ちゃんと母親を先に助けてあげたニュースや,電信柱にしがみついて助け合いながら生き延びたニュース,整然と並んで配られるのを待つ被災者のみなさん,善意の寄付。この国はまだまだ捨てたものではないなと改めて考えています。

でも,これがもし都会だったらどうでしょう。同じでしょうか。
そう考えたとき,わたしにできること・・・。もちろん募金も大切なことです。自分にできる限りのことはしたいと思っています。

それを置いて,わたしにできること。この国の素晴らしい心の有り様を子どもたちに伝えよう。それを受け継いでいく心を育てよう。そう思いました。

退職まで後数日。この思いを子どもたちに伝えていきたいと思います。何もできずにただニュースを見ているだけだけど,自分にできることをやっていきます。

こんなに恐ろしいことが,もう起こりませんように。早く治まりますようにと祈っています。

先生、ありがとうございます。

私も、私にできること、考えながらやっていきたいと思います。被害の全貌、その後の影響はこれからですが、私たち一人ひとりも変わりながら、力合わせていきたいです。

力をあわせることの大切さを子どもたちに、正面で背中で、見せていけたら。くじけないで、あきらめないで。

こちらでも似た様な光景がありました。
計画停電・・
この事態、早く復旧しますように・・。

ではお仕事行ってきます。

そちらは中心地のひとつなのに、停電など大変ですね。

私は停電地域から外れています。

通勤はかなり苦労してますが。。。

やや節電しながら、私にできること、今までは遠慮してやらなかったこと、がんばっていきたいと思っています。

保育所関連のことも伝えていけたらいいなと。

ブログ、引き続き拝見させてもらいますね。

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