心のミットの真ん中に
春のセンバツが終わり、3月に一足早く「新○年生」として扱われた高校球児も、新年度で他の同級生と同じ学年を迎えた頃。
注目された3人のキャプテンの言葉に、私も感動した一人。
すべてをその場で聞いたわけではないけれど。
心のミットの真ん中で、私もしっかりキャッチした。
野球ファンをこえて、そんなドストライクを受けた人が多い春。
記者が投げた本音のボールも、またまっすぐで。
***
◇寝ても覚めても:まっすぐ届いた言葉=冨重圭以子(2011/4/7毎日新聞夕刊)
http://mainichi.jp/select/opinion/netemo/news/20110407dde012070048000c.html
年齢のせいか、地震のショックか、涙腺が極端にもろくなっているのを感じている。センバツ開会式での岡山・創志学園高の野山慎介主将の選手宣誓に涙し、宮城・東北高の上村健人主将の発言を新聞で読んで泣き、優勝した神奈川・東海大相模高の佐藤大貢主将の言葉に、ほろりとさせられた。
野山主将の宣誓は、歴史に残る名スピーチだった。「人は仲間に支えられることで、大きな困難を乗り越えることができると信じています」「生かされている命に感謝し」といったフレーズは、いまも耳に残る。
東北高は初戦で敗退したが、上村主将は「地元に帰ったら、また自分たちができることをしたい」と語った。言葉通り、東北高の野球部員たちは、試合翌日に仙台に戻ると、すぐにボランティアセンターに登録し、活動を再開したそうだ。
佐藤主将の優勝直後のテレビインタビューも秀逸だった。「大震災直後の大会になりましたが」ときかれて「大会の開催を許してくれた被災地の方々に、感謝の気持ちを持って」と応じた。とっさにこんな受け答えができるなんて、いまどきの高校生は大したものだ。
正直に言う。私はセンバツは中止した方がいい、と考えていた。スポーツには人を元気にする力がある、と信じてはいるけれど、スポーツの力を発揮するのは、もっと後だと考えていた。95年の阪神大震災の際、センバツの開催を決めたのは震災から1カ月後の2月17日だった。開幕はさらに1カ月以上後の3月25日。被災地での開催を、被災者に受け入れてもらうには、必要な2カ月だった。
ところが今回は、開幕が、震災のわずか12日後。被害の全体像すらつかめていない段階では、スポーツが発信する元気は、空回りするだけではないか、と恐れていた。おそらく、肉親が行方不明の人や、福島第1原発で復旧作業に携わる人とその家族は、いまもスポーツどころではないだろう。
でも、センバツで選手のプレーを見て、活力を取り戻した被災者も多かったのではないか、と思う。たとえテレビ中継は見られなくても、3人の言葉を新聞やインターネットで知った人たちの心にも、高校生たちの思いは届いただろう。
3人の言葉は、心のミットの真ん中にまっすぐ飛び込んできた。けっして空回りはしていなかった。(専門編集委員)
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