単に見えているものを見ているだけではなく
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しあわせのトンボ:さわるように見る=近藤勝重
(2011/12/16毎日新聞東京夕刊)
http://mainichi.jp/select/opinion/kondo/news/20111216dde012070047000c.html
朝の散歩時、よく出合う近所のワン君の頭をなでてやっていると、登校中の女児2人が「さわってもいいですか」と近寄ってきた。飼い主が「優しくね」と答えると、2人はうなずいてワン君の頭を何度もなでていた。
これはこれだけの話なのだが、散歩から帰って、女児の言葉「さわってもいいですか」が思い出された。子供と犬の関係なら「可愛い」--「さわりたい」でいいとしても、それが人と人との関係だとどうなるのか。与謝野晶子の「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」という短歌の世界を想像したりしているうちに、そもそも「さわる」って感覚は何なのだ、と今さらのように気になった。
骨董(こっとう)好きの文人の随筆などには「骨董狂いは恋愛に似ている」といったことが書かれている。陶器の肌ざわりが、愛する異性の肌をさわるのと通じるものがあるということだろうか。やはり骨董好きで知られた批評家の小林秀雄氏は、江藤淳氏との対談でこんな話をしている。「絵というものは、なんだか歯がゆいもんですね。さわることができないからね。だから絵を見ていると、しきりに言葉が浮かぶのです」
察するに、さわるというのは見るだけでは得られないものを感じ取ろうとする人間の切実な感情なのだろう。それだけに、さわれれば黙して感触を味わい、さわれなければ言葉を出す。小林氏に言わせれば、「生物に一番基本的な感覚」であり、「一番沈黙した感覚」というわけだが、氏はさらにこうも言っている。
「ぼくが物を見るというのも、さわるように見るという意味なんです」
つまりはこういうことか。
物事の本質というのは外に現れ出ているものだ。それを感じ取りつつ見なければ、見たことにはならない。感じ取れないとすれば、単に見えているものを見ているだけのことだ--。
冬の日に誘われて公園に出てみた。葉を落とした数本の百日紅(サルスベリ)が枯れ木のごとく立っている。
ぼくなりに、さわるように見てみた。サルが滑るほどに滑らかな木肌も、今はカサカサとして生気を欠く。しかし、ただの枯れ木ではない。半ばはげた樹皮の内側にのぞく肌はむしろ生々しい。ここまで死んで見せて、しかし間違いなく炎暑には熱情の紅で彩られることを思うと、この木の激しい気性に触れた感覚があった。(
***
ただ「単に見えているものを見ているだけ」じゃなく、
本質を感じ取りつつ、さわるように見る。
深いなぁ。
さらに、感じ取ったものを表現するということの奥深さも。
秋の後の冬。
冬を迎えた植物、動物、人、物・・・、それぞれに模様があって。
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