カテゴリー「2011震災」の記事

2011.12.31

特別な1年 最後に伝えたいこと

12月30日に、宮城県の全避難所が解消され、気仙沼の最後の2世帯が退去したというニュース、知らない人の方が多いはず。

これからやっと、という状況。まだまだという状況。

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◇宮城の全避難所解消 気仙沼、最後の2世帯が退去
(2011/12/31河北新報)
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/12/20111231t15011.htm

 東日本大震災の2次避難所になっていた宮城県気仙沼市の気仙沼ホテル観洋で30日、2世帯9人が退去し、市内の仮設住宅に移った。これで宮城県内の全ての避難所が閉鎖された。
 最後の避難者となった同市の主婦小山あけみさん(49)はこの日、午前中から部屋の掃除に追われた。「次のお客さまのためにきれいにしなくちゃね」。ぞうきんで窓ガラスの汚れを拭い、冷蔵庫の霜取りもした。
 9カ月半に上る避難生活は「出口の見えないトンネルを歩いているようだった」と振り返る。今月上旬にようやく市内の仮設住宅への入居が決まり、少しずつ引っ越しの準備を進めていた。
 「家族のように親身に接してくれたホテルの従業員には感謝の言葉が見当たらない」。フロントの従業員から正月用の花を渡され、午後5時40分ごろホテルを後にした。
 2次避難所を担当した市観光課の加藤正禎課長は「長い間不自由な生活をさせて申し訳なかった。いい新年を迎えてほしい」と話した。
 宮城県内では震災直後、全35市町村に計1183カ所の避難所が設けられ、約32万人が身を寄せた。仮設住宅などの完成で次第に解消され、今月22日には気仙沼市に唯一残っていた1次避難所が閉鎖された。

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現在でも、宮城以外も含め、仮設住宅などに避難・転居している人は、33万人にのぼるといいます。

急増とも言えるこの数に驚いたのは、私もです。実際に発表された数が急増したのです。

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◇支局長からの手紙:あの日に帰るには /兵庫
(2011/12/28毎日新聞兵庫版)
http://mainichi.jp/area/hyogo/news/20111228ddlk28070327000c.html

 東日本大震災から8カ月たった先月中旬、政府は突然、避難者の数をそれまでの7万人から33万人へと大幅に修正しました。肝心の被災地である岩手、宮城、福島3県の公営・仮設住宅に入った人数の把握が遅れたという信じがたい理由です。

 各地に避難せざるをえない被災者をどう支えていくべきかをテーマにしたシンポジウムが今月、近畿弁護士会連合会の主催で開かれました。基調講演をした兵庫県弁護士会の津久井進さんは、この避難者数の訂正に「だれも正しく把握できていなかったということは、被災者がどこで何をしているのかがわからないということ。これでは漂流生活を余儀なくされてしまう」と声をふるわせました。

 県外避難者の存在が忘れられた阪神大震災を教訓に、国は、避難先の市町村を通じて避難者の情報をつかむ制度を導入しました。でも、これではとてもシステムとは言えません。震災復興の司令塔となる復興庁が来年2月をめどに発足します。避難者を支援する人たちが、県外避難者の生活再建の政策を専門にした部局の設置を求めるのももっともです。

 シンポジウムで発言した宮城県女川町の男性は、津波で家を流され、高校の体育館で100日間過ごしました。家族が闘病中のため通院できるところを探すしかなく、妻の実家のある大阪へ。市営住宅に住み、派遣業務で社会福祉協議会に勤めることができたものの、いずれも来年3月に期限が切れます。住と職の保証はそれまで。住宅ローンも残っており、「乗り越えないといけない気持ちはあるが、先の見通しがたたない不安を何とかしてほしい」と。

 緊急避難した公営住宅の入居や臨時雇用の期限を来春迎える人が各地に大勢います。それでも、家に戻ろうにも戻れないのが被災地の現状です。長期的視野に立った県外避難者を支える施策が急務なのは言うまでもありません。

 関西の学者や弁護士らによる研究会が昨年1月に公表した災害復興基本法の試案は、「復興の主体は被災者」と明記しています。津久井さんも作成にたずさわりました。100年後を目指した都市の復興より、今そこにいる被災者の救済を優先すべきという理念が条文にあります。

 さかのぼること88年前の関東大震災。内務大臣の後藤新平は、理想的な帝都建設の絶好の機会として復興計画をつくります。これに対し、大正デモクラシーの旗手として著名な経済学者、福田徳三は「復興事業の第一は、人間の復興でなければならぬ。道路や建物は、営生(生活・営業、労働)の機会を維持し、擁護する道具立てに過ぎない」と主張しました。人間復興がこれまでの災害で得た最大の教訓でないかというのが、弁護士として災害復興支援にあたる津久井さんの強い思いなのです。

 避難者が希望と夢を持つことのできる社会的な仕組み、つながりをどのように築いていくか。年があらたまっても忘れずにいたいことは、すべての被災者の心の中にある「あの日に帰りたい」という原点でしょう。【神戸支局長・二木一夫】

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被災地宮城の地元紙・河北新報が今年最後の紙面に大きく載せた記事、その保育士の人形劇の様子が、特別な1年の象徴のように感じます。

特別な1年 感謝伝えたい 寄り添いたい 宮城
(2011/12/31河北新報)
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/12/20111231t15021.htm

被災者ではありませんが、私にとっても特別な1年でした。

このブログを見てくださったみなさんにあらためて感謝しています。

みなさんにとって、そして私にとっても来年がよりよい年になりますように。

3.11後に感じたこと

年明けから「絆」の意味を考え、そして震災。

幸せって、ゆたかさって何だろうと思い続けた1年。

無力感にさいなまれた春、便利さと人との絆を考えさせられた夏、

忘れないということと初心をかみしめた秋、そして生きるということを振り返った年の瀬。

チャレンジしようと思ったことがなかなかできなくて何度も挫折して。

目標なんて、何度もなくなって。

人に伝えたいことが伝わらなくて、何度も悩んで。

それが生きるということなんだなぁと、やっと。

完璧なんて形はなくて、すべてにいい人なんていなくて、

迷い、惑い、後ろに下がったり、前に進んだり、少しずつ変わっていく中で。

感じたことを言葉にすることが大切なんだと。

そんな私が子どもの頃、小さかった頃、大人の歌と感じたのは、「ルビーの指環」と「もしもピアノが弾けたなら」。

その「もしも・・・」の西田敏行さん、福島出身。

今日の紅白で「この街に生まれて」を歌います。

その1週前のインタビュー、考えさせられます。

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◇3.11後に感じたこと/西田敏行さん
(2011/12/25asahi.com マイタウン福島)
http://mytown.asahi.com/fukushima/news.php?k_id=07000741112240001
●子供たちの顔見て「負けてないな」

 まもなく新しい年を迎える。郡山市に生まれ、中学生まで過ごした俳優西田敏行さん(64)に、今、何を感じているのか、福島への思いを聞いた。
    ◇
 地震の時は大阪に向かう新幹線の中にいた。

 「新横浜駅を午後2時29分に出て、熱海の手前あたりのトンネルで止まった。3時間か4時間ほど遅れて大阪に着いて、東北で被害が出ていると。翌日、東京の自宅に戻って福島の友人に電話をしたんですが、一切通じない。ラジオを聞いていると、原発がちょっとおかしくなっていると。水素爆発が起きて、これはただごとじゃない、あぁ、えらいことになったなと」

 4月1日に風評被害対策として、郡山市のスーパーで県産品のPRをした。

 「みんなこう……やられたって顔で。線量は問題ないんだけど、イヤだと思う人は買わないだろう、どっかにそういう思いがあったと思います。生産者の方たちも、子供たちを守る、放射線に対する恐怖、いろんなものがあるじゃないですか。無理強いして買ってもらいたいという思いにはなかなかならない、微妙な心理のあやを感じましたね」

 個人的に、南相馬市にも行った。

 「この目で被災状況を見たいと思って、震災から1カ月くらい後でしたか。ともかく、自衛隊か何かの車が行き来している、戒厳令下にあるような。時々、がれきのところで手を合わせている、『家族の方かなぁ』っていうような感じで。津波によって、根こそぎ生活を海底に引っ張っていってしまうような負のエネルギーを、寒気が走るほど感じましたね」

 母校の郡山市立小原田中学校の創立50周年記念式典に参加。「豊かな福島を取り戻すため、大人になって県政や経済、文化で活躍してほしい」と語りかけた。

 「みんな熱狂的に迎えてくれました。子供たちの顔を見て、そういう言葉が口をついて出てきました。僕を笑顔で迎えてくれたっていうことに特に感動して、『あ、負けてないな。君たちは負けてないな』って」

 夏には、双葉町民が避難している旧埼玉県立騎西高校に出向き、Tシャツを差し入れ。ラーメンを800食ふるまった。

 「みなさん、着の身着のままで来られたと聞いてましたし、夏は汗をかくだろうと。ラーメンをすすってると大体みんな幸せそうな顔になるんですよね。ラーメンの効力っていうか。そういう気持ちになってもらおうかなって」

 ●幸せって何 考える時期に来てる

 朝日新聞のインタビューで4月、「怒りの声を張り上げたい」と話した。

 「ええ、怒りを覚えました。僕は原子力エネルギーというのは人間がコントロールできるものではないとずっと思っていた人間ですから。経済発展のために欠かせないエネルギーということで国策でどんどん進められて、推進してきた人たちは日本の原発は事故は起きないと豪語していたわけですから。その言葉を信じて、というかどっかで折り合いを付けて福島に立地されたわけですよね。そういう部分で葛藤みたいなものは福島県民の中に多くあって。原発で働きながら暮らしてきた人たちにとっては、なんだろうな、被災者でありながらどっかで加害者であるみたいな気持ちを持っているような気がするんですよね。そういうところに追い込んでしまうこと自体、原発は人々を平和にっていうか、幸せにしないなぁって思いますねぇ」

 新たな価値観が生まれることを期待している。

 「大切なもの、幸せって何だろうってことを本質的に考え始めている時期に来ているのかな。『経済』が人の暮らしの最も重要なキーになるのか考え直したらどうなんだろう。便利さを求めいろんなものを求め、人間はどんどん飽くなき欲望の中に行くわけですけれど、もう歩かなくてもいいんじゃないか。どこに向かって歩いてんのか見えなくなるくらいみんな先を急ぐんだけど、その先って何なんだろうって思い始めて。21世紀はその先を考える世紀だと思います」

 福島のニュースはいつも気になっているという。

 「この間も、コメの線量が基準値を超えたって。東京電力福島第一原発って必ずトップ項目に入ってきますから。でも、トップ項目にないと困るなっていうのもどっかにありますね、収束していない以上は。『あれ? 原発はもう収まったんだっけ?』みたいな会話はさせたくない」

 ●ふるさと--親を思う心境かな

 福島で情操を育ててもらったと発言している。

 「田舎で育ったことのプライドというか誇りというか、福島からいろんなものを育んでもらった。僕らは阿武隈川で泳いでいましたから。上流で牛を洗っているオヤジがいて、その牛が気持ちいいのか、放尿するわけです。そうするとビールの泡みたいなものができる。それが下流に向かって流れてくるんだ。見張り役が『牛のションベンこっち来まーす』って。みんないったん川から上がって、泡をやり過ごしてまた泳ぐ、みたいなね。いいなあ。子どもたちの歓声とか、嬌声(きょうせい)が。生き生きしているというか喜々としているというか、子供がちゃんと子供の声を上げている場所だったような気がするんですね」

 「街にはおやじが連れて行ってくれる映画館があって、子供の映画も、R指定が付きそうな映画も見ることができた。猥雑(わいざつ)な、でもシンプルな文化を吸収している自分がいて。そういったものが交錯して、俳優西田敏行の原型をつくったんじゃないかな」

 仕事に区切りが付いた時や、気分転換をしたい時には福島に帰ってくる。

 「磐梯山や安達太良山を見ると、なんか元気になるんですよね。小学校、中学校の友人がいて、『会社休んできた』とか言って集まってくれる。こっちの都合で行っているのにね。もうそれで十分ですよね、ふるさととしてのありようは」

 震災後、ふるさと福島への思いはますます強くなっているという。

 「母親とか父親に思いを寄せることに似ていると思うんですね。親が憎いとか近親憎悪的な思いを持つ人もいるだろうし、親孝行しなければいけないなという思いを持つ人もいるだろうし。でもやっぱり、母親あるいは父親が病気で倒れたら、何とかがんばって元気を出して回復してほしいという子供の心境かな。そういう思いの中にいます」
(木村俊介)

2011.12.30

一番売れているラーメンが一番おいしいとは限らないし、売れている歌がいい歌とは限らない 

CD売り上げの年間チャート100http://www.oricon.co.jp/rank/js/y/2011/を見ましたが、

今年はヒット曲がなかったんだと実感。

AKBはファン層が限定的すぎますし。

逆に言えば、それほど売れていなくても、いい歌、心にしみた歌があったということではないでしょうか。

誰の言葉か忘れましたが、一番売れているラーメンが一番おいしいラーメンとは限らない。

一番売れているラーメン、カップヌードルが本当に一番おいしいのか。

そんな見方があり、その通りだと。

さて、紅白歌合戦には出場しませんが、熊谷育美さんの「雲の遥か」、反響が広がっています。

今年7月初旬に、東京・三多摩地域で仙台七夕まつりにむけたイベントコーナーを通って、仙台に行きたくなり、

8月にホテルが奇跡的に見つかって、仙台に行くと、熊谷育美さんの出るライブが偶然あって。

生歌を聴くことができました。

年末のスポーツ紙でも大きく話題に。

***

◇気仙沼から希望の歌を…被災シンガー熊谷育美 合唱曲で人気上昇中
(2011/12/28スポーツニッポン)
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2011/12/28/kiji/K20111228002327330.html
 宮城県気仙沼市在住のシンガー・ソングライター熊谷育美(26)の楽曲が合唱歌として注目を浴びている。

 地元の未来を前向きな視点で歌った「僕らの声」「雲の遥か」の2曲で、全国の小中高校や看護学校などで披露した際に生徒たちから「みんなで歌いたい」との声が殺到。申し込みがあった学校の合唱部など約200団体へ楽譜を提供した。

 自身も東日本大震災で被災し、惨状を目の当たりにした。その悲しみを乗り越え、4月から全国の学校などで継続的に行っているライブがきっかけ。関係者によると、メッセージ性の強い楽曲を実際に聴いた生徒たちから「みんなで歌いたい」という要望が高まったため、11月から公式サイトで楽譜の配布を始めたという。

 震災から5カ月たって作った「僕らの声」は♪どうか忘れないで僕らはここにいる 歩いて行こう 足跡つけて ここから明日へ――というシンプルな歌詞。10月に発売されたアルバム「その先の青へ」に収録されており「明日への未来を担う子供たちと一緒に歌いたい」という思いが込められている。

 そうした気持ちが若い世代の心に響いていることについて、熊谷は「気持ちを合わせて歌うことで、未来への勇気と希望を分かち合って生きていくという強い意志が、私には伝わってくる」と喜んでいる。
***

故郷で聴きたい歌。

公式PVです。

【YouTube】公式PV 雲の遥か 熊谷育美
http://youtu.be/suri4Y9XgPY

2011.12.29

結構あるよ、ボランティアツアー

首都圏や山梨、長野、大阪、兵庫から東北へのボランティアツアー、思ったよりあるんですね。

宮城の山元町や仙台、石巻、気仙沼、塩竃、南三陸、岩手の陸前高田などへ。

ボランティアツアー
3.11復興支援情報サイト「助けあいジャパン」
(東日本大震災復興対策本部 連携プロジェクト)
http://tasukeaijapan.jp/?page_id=3813

サイトをぜひ見てみてください。

2011.12.25

まもなく放送 チェルノブイリ 再生の歴史

司会は国分太一さん。

ETV 12月25日(日)  25時15分~26時46分

まるごと紹介!日本賞 受賞作品 ▽チェルノブイリ 再生の歴史 

教育コンテンツの国際コンクール「日本賞」の受賞作品を紹介する。チェルノブイリの原発事故から25年、周囲の生態系への影響を検証するフランスのドキュメンタリー番組。

教育コンテンツの国際コンクール「日本賞」の受賞作品を3夜連続でノーカット放送する。2夜目は、生涯教育カテゴリーで最優秀作品に選ばれた「チェルノブイリ 再生の歴史」(カメラ ルシーダ プロダクション/フランス)。原発事故から25年。チェルノブイリ周辺は、悲劇の結果ではあるものの、予期せず手に入れた重要な野外実験場となっている。現地で調査を行う専門家の長年の研究結果をもとに、放射能汚染の脅威を描く。

司会 国分太一

ヤンマーのCMから流れてくる追い風

この年末から、馬場俊英さんの「いつか君に追い風が」が、ヤンマーのCM曲として流れるという。

社会が、時代が、人々が、厳しい風をうけるなか、3年前にリリースされたこの歌がクローズアップされた。

【公式PV】「いつか君に追い風が」
http://www.youtube.com/watch?v=UDj8c68Dxtk

発売にあわせて3年前の秋に朝日新聞に掲載されたメッセージがまた今に響く。

馬場俊英からの手紙(2008年9月~朝日新聞掲載)
第一章「無風」
http://www.babatoshihide.com/newsong/images/letter12.jpg
第二章「向かい風」
http://www.babatoshihide.com/newsong/images/letter22.jpg
最終回「追い風」
http://www.babatoshihide.com/newsong/images/letter32.jpg

馬場俊英オフィシャルサイト
http://www.babatoshihide.com/

2011.12.24

被災地に現地の商店を通じて届ける支援

年末年始、被災地でボランティアや観光をと思った。

でも、当然だけれど、その時期はボランティアの受け入れ枠自体が少なく、

また、観光にしたって、私は盛岡や平泉、仙台にはすでに行ってきた。

クリスマスを前に考えたのは、

いま、私ができること。

復興市場
http://fukkoichiba.com/

というサイトを、以前に知人から教えてもらった。

被災地・被災者が必要だとしている物を、

支援したいという人が、地元の商店などから購入でき、贈ることができるというもの。

しかも、そのやりとりが確認できる。

何を贈ろうか、考えている。

多額なお金と時間をかけてボランティアに行くことは、多くの人にできる継続的な支援ではない。

私もクリックしてできること。

実際に届くまでには数日かかるので、サンタクロースにはなれないけれど。

被災地や避難先の子どもたちへ北斗星の贈り物

***
 20年ほど前の今ごろだった。夜に郵便局員が、わが家を訪ねてきた。「お宅に○○ちゃんという子どもさんはいますか」「ええ、何か」

▼郵便局員は小さな封筒を差し出した。宛先には「サンタクロースさんへ」としかなかった。裏に平仮名で娘の名前。郵便物の仕分け中に見つけたという。投函されたと思われるポストの場所と名前から、わが家を探し当ててくれたのだった

▼当時、幼稚園に通う娘の欲しい物が分からず困っていた。知らないうちにサンタに手紙を書き、投函していたとは。「プレゼントの参考にしてください」と郵便局員。開封すると、中の紙片には欲しいおもちゃが記されていた

▼娘だけでなく親にとっても、郵便局員は一足早くやってきたサンタだった。“サンタは本当にいる”と教えてくれる有名な話がアメリカにある。「サンタクロースはいるんでしょうか?」と新聞社に手紙を出した8歳の女の子の話だ

▼「この世の中に、愛や、人への思いやりや、真心があるのと同じように、サンタクロースも確かにいるのです」。新聞社は社説でこう答えた。目には見えなくても本当にあるもの。大震災を経験した今年、そこに「絆」も加えたい

▼クリスマス商戦はこの土、日がピークとか。おもちゃ売り場はにぎわうだろう。しかし大震災はそこにも影を落とす。仮設住宅や避難先でクリスマスを迎える子どもたちも多いはず。胸が痛む。そんな子どもたちみんなにも等しくサンタが訪れるよう心から願う。
***

2011/12/17秋田魁新聞コラム「北斗星」より

東北のなかでも、震災の被害がほぼなかった秋田の地元紙のコラムからの贈り物。

プレゼントが毎年あったのに、今年はこないとなると、正体もばれてしまうもの。

仮設住宅や避難先の子どもたち、また被災していなくても所得の低い家庭の子どもたちのことを想いたい。

最近は「貧困」が新聞記事になりにくいとも聞く。

あと1週間。

私たちが岐路に立った年もいよいよ幕を閉じて、明るい年へ必ず。

2011.12.23

年末年始のETVの予定に驚かされる

ETV(教育テレビ)の年末年始の再放送予定をご覧になった方はほとんどいないと思う。

ぜひ、下記のラインナップをみてみてください。

ETV特集 年末年始 震災、原発関連セレクション
http://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2011/2011sp.html

2011年12月28日(水) 午前1時5分~
“医療崩壊”地帯を大地震が襲った

2011年12月28日(水) 午前2時5分~
失われた3万冊のカルテ~陸前高田市・ゼロからの医療再生~

2011年12月29日(木) 午前1時5分~
福祉の真価が問われている
~障害者 震災1か月の記録~

2011年12月29日(木) 午前2時5分~
今こそ、力を束ねるとき ~神戸発・災害ボランティアの記録~


2011年12月30日(金) 午前1時5分~
原発災害の地にて


2011年12月30日(金) 午前2時5分~
ネットワークでつくる放射能汚染地図
~福島原発事故から2か月~


2011年12月30日(金) 午前3時35分~
続報 ネットワークでつくる放射能汚染地図


2011年12月31日(土) 午前1時45分
ネットワークでつくる放射能汚染地図 3
子どもたちを被ばくから守るために


2011年12月31日(土) 午前3時15分~
ネットワークでつくる放射能汚染地図4
海のホットスポットを追う


2012年1月1日(日) 午前0時20分~
シリーズ 原発事故への道程
前編 置き去りにされた慎重論


2012年1月1日(日) 午前1時50分~
シリーズ 原発事故への道程 
後編 そして“安全神話”は生まれた


2012年1月2日(月)  午前2時~
暗黒のかなたの光明
~文明学者 梅棹忠夫がみた未来~


2012年1月3日(火)  午前1時~
希望をフクシマの地から
~プロジェクトFUKUSHIMA!の挑戦


2012年1月3日(火)  午前2時30分~
原発事故に立ち向かうコメ農家


2012年1月3日(火)  午前3時30分~
果てしなき除染 ~南相馬市からの報告~


2012年1月4日(水)  午前1時~
シリーズ大震災発掘 第1回 埋もれた警告


2012年1月4日(水) 午前2時30分~
シリーズ大震災発掘 第2回 巨大津波 新たなる脅威

「聖なる夜と放射線 この子の未来を祈る」

丁寧な構成で定評のあるドキュメンタリー番組NNNドキュメント。

2011年の最後の放送は注目の内容。

また、2012年の1月初旬には異例の再放送が早朝に4回続く。

テレビを中心に、震災関連の報道が大きく減っているなかで、問われているのは何か。

考えあいたい。

***
日本テレビ系 NNNドキュメント「聖なる夜と放射線 この子の未来を祈る」http://www.ntv.co.jp/document/

2011年12月25日(日) 25時50分~26時45分

3・11大震災 シリーズ 25

見どころ

原発事故が家族の日常を奪った。降り注いだ放射性物質の不安と恐怖に、家族が揺れている。福島市・渡利地区。家のリビングに柵を設け、1歳半の娘がその柵から出ないように子育てしている家族がいる。そこが家の中で最も線量が低いからだ。親兄弟など、身を寄せて避難できる場所はない。仕事を辞めたら食べてはいけない。自主避難者も多い中、避難したくても出来ない現実に揺れている。一方、小学校6年生の一人娘を、ひとり遠く離れた福井県に避難させた親がいる。少女は過疎と高齢化が進む集落にホームステイし、地元の小学校に通う。介護の仕事をする両親は福島を離れられない。なぜ家族がバラバラに…。中学進学はどうするのか?子供達の未来を守るための選択と決断をカメラは見つめる。

内容

福島第一原発の爆発。まき散らされた放射性物質による子供達の健康被害が心配されている。国の安全基準は『20ミリシーベルト/年』。今回の事故で国が定めた被曝の上限だが、自然界からのそれを除く一般人が1年で受けていい数字の20倍だ。
これを子どもにも適応させていいのか…不安は大きく、見えない恐怖に怯えながら暮らしている家族が多い。20km圏内の警戒区域に帰れる未来は、いつなのか?計画的避難区域の線量は安心できるレベルになるのか?
約60km離れた福島市や郡山市など、県内では特に人口が多い中通りの市町村の土壌も放射性物質に汚染され、線量の高い地区が存在する。
自主的に避難を決めた家族、子供と親が離れて暮らす家族、住み慣れた地に残る家族、それぞれの選択をした家族を通して、「放射線」に怯える日々の苦痛を考える。
目に見えない放射線に翻弄され、我が子の未来をどう守ればいいのか・・・親の切なる思いを全国の人に知ってほしい。

『避難したくてもできない』1歳半の娘と親   福島市

●1歳半の娘を持つ親。家は福島市でも線量の高い渡利地区。福島市を離れたいが、経済的状況を考えると避難できない。
父親の実家は石巻で津波の被害をうけ仮設住宅で暮らしていて、身を寄せられない。
母親の実家は南相馬市、緊急時避難準備区域の規制は解除されたが、原発に近づく場所には住む気になれない。
現在も窓を閉め切り、1歳半の娘を外に出す事が出来ない。家の中で一番線量の低い区域に柵を設け、そこから娘がでないようにしながら子育てをしている。
それでも、その場所は0.6μSv/h=18歳未満が働くことができない放射線管理区域の積算放射量を超える。何度か自主的に家を除染したが、数値は下げ止まったまま。
狭い柵の中で娘と添い寝する妻のすぐ脇で、夫は公開される線量のデータをにらみ、やはり避難すべきか悩む日々を送っている。

『娘だけ福井へ避難』親子離ればなれの決断    南相馬市

●この夏、小学6年生の娘を福井市の郊外に疎開させた親がいる。家は緊急時避難準備区域の南相馬市。娘の小学校は原発から20km圏の少し外側。規制以来、30km圏外の小学校にバスで通っていた。あれ以来、のびのびと子供たちが外遊びで笑顔を見せることはない。疎開先で見た娘の姿に決心をする。「2学期から娘ひとりを福井県に避難させる」と。
福井市郊外、過疎と高齢化が進む地区。その一軒へのホームステイを娘も受け入れた。両親は共に介護の仕事につき、南相馬を離れることができない。家族が離ればなれに暮らす決断・・・寂しく、悲しい現実に押しつぶされそうになるときもある。

2011年、最後の放送となるNNNドキュメントは原発事故がもたらした見えざる恐怖に翻弄される家族の姿を通じ、子供達の未来を思いやる心と、家族がどうあるべきか?迫られる選択と決断から、家族の絆を描きたい。

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